ままならない

SNSで失った日本語能力をブログで取り戻す

生きづらさってなんだろう


自称社会不適合者が量産されていますが、
相対的に見てどうであるかはもはや関係なくて、自分がどう感じているか、それだけに焦点を置くべきだと思うんです。

「辛い」って言ってる人がいて、でもそれ以上に辛い人もいて、それで「自分の方がもっと不幸なのに!」って言っても何も生み出さないでしょう。
それぞれ自分のキャパシティがあって、そこと比べてどうなのか、っていう話しかできないと思うんです。


少し飛躍するけどこれは学歴コンプレックスにも通じるのではないでしょうか。
東大生が「ハーバードに行きたかったのに落ちた。東大は行きたい大学ではなかった。コンプレックスだ。」と発言したとして、果たして私たちは「そんな贅沢なことを」「十分でしょ?」「行きたいのに行けなかった人もいるのよ」と言う権利はあるのでしょうか?

例えばこれはもう少し難易度の低い大学になると顕著で、またさらにここに「周りの人を見下している」という見解まで加わってしまいます。
人それぞれ学力にも差があって、想いも違って、現実も違う。均一的に評価することはできないはずなのです。


きっと私たちは集団を成すと、ひとりひとりにキャパシティがあることを忘れてしまうのだと思います。というよりも、それを無視した方が動きやすいのでしょう。

その傾向がやがて、「普通の人」像を作り上げ、ある種の強迫観念のように「普通の人」ロードを歩まなければならないと思いすぎてしまうのではないでしょうか。


ふと気付くと、「普通の人」像は自分の中で誇張されていて、実はそこまで「普通の人」でないと許されないわけではないとわかります。
しかしそれは「普通の人」像がないわけではなくて、あまりにも長い間思い込んでしまったがためにぶくぶくと太った像になってしまっただけのことです。


だとしても、それに気付くだけで、幾分かは気が楽になるでしょう。




世間が変われば…

きっとその前にも自分のなかのパズルをひとつ動かすだけで案外うまくいくことも多くあるのでしょう。




……それでも「普通の人」にはほどほど遠いですねえ。困ったものだ!

理解するのではなく選択をするということ


周りの子を見てるとイキイキしてるなあって。

みんなやりたいことがあって、
それを就活でアピールしたり
研究して卒論書いたりする。


わからない。自分が何をしたいと思っているのか。
わからない。何を根拠にみんなはやりたいことを主張できるのか。
わからない。いま何をすべきか。


本当になにもわからないんです。
もはやなにがわからないのか、わからないし、わからないってなにがわかっていないのかもわからない。

わからないをわからないで説明するともうそれは混沌です。無ではない。わからないというものがあることはわかっているから。


でもみんな、わかってるわけではないと思うんですよね。
中にはわかってる人もいるかもしれない。けど大半は、そうだと思い込んでいたりわかったことにしていたりするだけなんだと思います。みんなそれに決めたんだ。

さて、どちらが幸せなのかはわかりません。が、私には決断力がない。
わからないならわからないなりにでも、わかってる範囲でのベストな選択もできるけど、それを行うための資料も持っていない。

もし周りの人がわからないということをわかってなくて、私がわからないということをわかっていたとしても、それでも私は周りの人よりも優れていることにはならない。


選択から逃げているだけにすぎないのだから。






あと最近1番疑問なのは、
このブログ、この時点でおおよそ600字書いてるんですが、
なぜレポートになるとこのようにスラスラ書くことは厳しくなるのでしょうか

スタッフか演者か

人を閉じ込めるお仕事もキャリア3年となります。

どんな公演でもアンケートを書いてもらうのですが、結構読んでます。
「あの男女カップル、女の子は友達って書いてるのに男の子は恋人にマルをつけているぞ!」
楽屋でそんな声が飛び交うのは日常茶飯事です。お気をつけあそばし。


正直そんな話はどうでもよくて、というより全く見ていなくて、あのお客様かな、という特定のためにしか見ていない。

フリースペース、めっちゃ読みます。
ありがとう って書かれてたら嬉しいなって。やっててよかったなあ、って1番思える瞬間だから。


でもでも、
「スタッフさんありがとうございました」
って書かれてたら、まだまだだなって思う。

いかなるポジションにいても、スタッフって思われたら負けだと思う。

例えば何かのキャラを演じているのなら演じきれていないという意味になるし、存在を消さなければいけないのなら目立ってしまったということになるし、ザ・スタッフなポジションならば名前を覚えてもらえるくらい楽しませることができなくちゃいけないと思う。
名前でなくとも「お姉さん」と「スタッフ」の間には明らかな違いがある。



このあいだのとある公演は、
お客様よりも自分が楽しかったんじゃないかってくらい素敵な時間だったんですが、

そこでいろいろ考えました。


イベント力って企画力・運営力だけじゃないのではないか。

目の前にいる人数やコンセプトやらによりますが、その場に応じた変化をもたらせるのも重要じゃない?そこまで画一的なものが必要か?

毎度変化があるから イベント なわけで、常に同じルーティンしかしないなら人間である必要性が全くないんだよね。映画見てればいいじゃん?


ゲーム性の確保のためだったり公演を円滑に進めるためだったりの最低限のマニュアルは必要だけど、楽しんでもらえるならなんでもいいと思うんだよね。

暗躍ラインってなんなんだろう?どうしてみんなそれにとらわれるの?こちらが提示したゲームを行ってなくてもその空間にいて他のことして楽しんでるのならば(もちろん他の人に迷惑をかけない範囲で)問題なくない?

私たちはゲームを提供してるわけではなくて物語体験の場を作っているのだから、例えばワンピースとコラボしているときに全く謎を解かずにゾロにキャーキャー言っててもいいんだよね。なんなら謎を解いていないのに世界に入ってくれてとっても嬉しくない?全くそのアニメの中の人間でもないのに、勝ちじゃない?


そういったバイタリティを持った人間になりたいし、任せてもらえる人でありたい。

そして何よりもそういったことを認める存在でいたい。