とうとうブログを年に1度しか書かなくなってしまいました。それだけ生活が充実しておるということなのでしょう。
定点観測日(=誕生日)だけはブログを書くと決めているので、今年も書きます。
なんと31歳になりました。
31という数字を見て、わけのわからない気持ちになりました。もう未知の数字すぎる。昨年も記述した通り、2X歳で死ぬと思っていたから、30歳になったのはびっくりだった。ただ、なんだろう、30という数字はキリが良すぎるし、結婚するなら30歳までに、みたいなことも言っていたのでなんとなく馴染みはあったんですよね。31って何???18歳の私と31歳の私が果たして同一人物だと、誰が証明できるのでしょうか?どこかで人物が入れ替わったとしか思えないくらいあり得ない年齢と思えてしまいます。
なんだかここまで死に囚われているような言いっぷりですが、死ぬ気は特にありません。これからも私の人生は続いていくし、自らそれを絶とうということは今のところ全く考えておりません。
詳細を書くのが面倒なのでここでは省きますが(隠しているわけではなく、今回の主題とは異なるのでこのブログでは省略します)、紆余曲折あり只今私は看護学校へ通っております。
この間授業で、「何のために生きるのか」「何歳で死にたいか」「なぜ自ら死んではいけないのか」というテーマについてグループワークをさせられました。なんてお題だ!と思いながら。
お利口さんの答えを用意するか、ひねくれた本音をぶつけるか、大層悩みました。
「何のために生きるのか」については「死ぬまでの暇つぶしとして」と答えました。これは捻くれた答え。ただ、まあそこまでダークな回答でもないだろうと思い、開示しました。
「なぜ自ら死んではいけないのか」についてはどうしても賛同できないので、「死んじゃダメだなんて思ってない」と回答。
問題は「何歳で死にたいか」です。
結論から言うとグループワークでは、うまいこと話を逸らしながら私だけその答えを言いませんでした。
自分の中の捻くれた回答は「もう私はとっくのとうに死んでいます」という答えです。だから何歳で死にたいとかない、死んでるし、ということ。死んだ人間に 何歳で死にたい? って未来の話しないでしょ。
逆に言うと、ある意味もういつ死んでもいい、とさえ言えることになります。そんなふうに考えたことはなかったけれども、改めて考えてみたら、確かに今はいつ死んでもいいって思えてるな、と思います。
もちろん、タイミングが悪いことはあると思います。夫を残して死ぬのは嫌だし、まだ祖父母4名とも健在、父母も元気なので、先に死ぬわけにはいかん、とは思います。タイミングによっては あー来月旅行に行く予定だったのに とか、そういうちょっと先の楽しみの予定があることもあると思います。
死ぬことはもちろん怖いけれど、じゃあ死にたくないかと言われるとちょっとギモン。死にたいわけでは決してないけれど。
だからこそ人生は「死ぬまでの暇つぶし」なわけなんですよね。どうせ生きてるなら充実してる方がいいし、好奇心はたくさんあるからそれを実現させる方がいいし。
生きるということは程度の差はあれど自分の命を差し出したり削ったりすることであるように思います。医療職は差し出す命がまあまあ大きい方だと思うし、例えば軍事・防衛分野なんかはかなり大きいと思います。これらのものに大きな興味を抱いている今日この頃なのですが、やはり私の死生観にも起因している気がしますね。ただ、もう1人の人生ってわけでもないので、その辺との折り合いを考えなくてはなりません。
1人の人生ではない、というところで言うと、私にも家族に対する愛があったのだということに最近気付きました。夫という存在ができて、ようやく家族愛を覚えました。これについては説明するのが面倒になってしまったのでここらで筆を(親指を)置きます。
明日は自分から自分へのプレゼントとして、サーティワンを全種類買おうと思います。大人買い〜!